東京21法律事務所所属

弁護士 広津 佳子  Lawyer Keiko Hirotsu Official Site

ブログ
2016/1/24
事実認定の難しさ
 2016年2月の判例タイムズ1419号に「高裁から見た民事訴訟の現状と課題―自由平等社会における民事裁判の役割―」という記事が掲載されています。平成27年6月に司法研修所で行われた、元東京高等裁判所判事による、講演を基に加筆訂正されたものです。この元判事は、現在は65歳を迎えて定年退官をされたようですが、私も、東京高裁でこの方に事件を担当していただいたことがありました。判決書や決定に、ご自身の思いを盛り込む方だなあという印象を持っていたので、興味を持って記事を拝読しました。

 興味深かったのは、事実認定に関するお考えです。事実認定のヒントとして、以下の5つを指摘されていました。
①事件の全体像を把握し、時系列で経過を確認すること
 そのための関係図の作成や動機、目的を検討すること
②動かし難い事実は些細な事実にあらわれること
 例えば、契約の内容に争いがある場合、契約の締結場所、その場所は誰がセットしたのか、立会人は誰か、なぜ立ち会ったのか、誰が指名したのかなどの客観的事実はぼほ争いがないはずなので、このような事実を糸口にして、契約の締結に至る経過が明らかになることは少なくない。
③文書は、その内容だけでなく、その物の形状や材質などもよく確認すること
 契約書の紙質、筆記具の異同、インク等の経年変化の有無、朱肉の色、契印の有無、ホッチキスの綴じ跡の状態、貼られている印紙や切手の内容、状態等の物理的形状や状態が事実認定に役に立つ。
④証人や本人の個性に惑わされないこと
 答えをはぐらかすような者の供述はまず信用できないとのご指摘。
 服装や態度、供述内容の信頼性とは、必ずしも一致するものではない。自信に満ちて丁寧に答えているように見えても、客観的な証拠と照らし合わせて、十分な根拠のない場合もある。
⑤なぜ事実認定に迷っているのかを自覚すること
 証拠が十分に集まっていないからなのか、当事者として明らかにしたくない事情が存在しているので当事者双方の書面を読んでも分からないのか、前提となる概念が曖昧なのか等
 裁判官から「当事者双方の主張のとおりなら、なぜ、このような訴訟になっているのですか」と端的に疑問をぶつけて、当事者の反応を見るのも効果的である。

 そして、証明の程度に関するご指摘もありました。著名な東大ルンバール事件判決により、民事裁判における原則的証明度は高度の蓋然性を基準とすると言われています。しかし、証明の程度を高度の蓋然性まで求めると、不都合が生じます。例えば、請求側である原告が主張する貸金(お金を返してもらう)の可能性(心証)が7割、被告側が主張する贈与(お金はあげたもの)の可能性(心証)が3割だとすると、7割の可能性(心証)では高度の蓋然性という程度までの立証がなされていないことになるので、原告の請求は棄却されることになりますが、請求を棄却すると、被告側の贈与の主張が正しいということになり、「消極的誤判」の可能性は高くなるという指摘がなされていました。実務的には、高度の蓋然性ではなく、相当程度の蓋然性を採用し、原告と被告のどちらの立証が相当程度まで優越しているかという基準で考えるべきというご指摘でした。長年の裁判官のご経験からすると、心証の点で、6対4や7対3という優劣差を感じるときは、そのような心証を支える一定の有力な証拠が存在しているはずであるという記述もありました。

 上記の記事には、当該元裁判官が、個別の事件で1審判決の判断を覆して、どういう思考プロセスで事実認定をしたのかという説明もなされていました。読んでいただくと、ご参考になると思います。
 
 事実認定の難しさは、論理的な判断の要素はあるものの、比重としては、社会生活を送る中で自然に体得される経験に基づく判断の要素のほうが多く、一定程度の経験を必要とする点にあります。しかも、日々の生活の中で、自分の視野に拘らず、広い関心を持ち、幅広く、人の話を聞かなければ、”経験則”を理解することができません。知的好奇心は非常に重要だと思います。

 そして、このような日々の事実認定の鍛錬が、事件の種類を問わずに、活かされるものだと感じています。私は、特に、裁判員裁判を経験して、そんな印象を持ちました。裁判員裁判について感じたことは、別の機会にお話したいと思います。

 私は、これからも、“引き出し”を多く、いろんな方のお話を聞き、いろんな経験を積んで、自己の研鑽に努めたいと思います。
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